けむぼーの小作品集    

 切り絵や似顔絵とは違った、身の回りのものや日記のカットなど四畳半的作品をお見せしましょう。
  時々、大学ノートの裏表紙や古い日記から切り取ってアップしてみましょう。
  



   これが、私の大学時代の四畳半の世界。今も現役なのは私とコーヒー・ミルぐらいのものでしょうか。それから、メガネの度は未だ変わっていなかった。
 かずかずの小作品が、武蔵小金井の駅前家具屋で買った手動昇降式のテーブルから生み出されたのであります。プラチナの細字の万年筆に黒インクを入れて一発勝負で描いてました。
 後年、切り絵やそば打ち台にも使われました。
 おおー、エポック社のエレクトリック野球盤だぁ。盛岡駅で買った石割桜も転がってるじゃないの。
レコードはパット・メセニーのサンロレンツォの想いでのようだな。
 窓に張ってあるくもの巣のような天気図、いつも宮古の天気を記けていた。
 俺もそろそろ動いてみるかと、アニメにしちゃった!



            冬休みに富山から帰ってきた娘から、「生協の白石さん」という本をプレゼントされた。すごい面白い本なのよ・・・といわれたが、仕事とWEBとペイントに忙殺されて読む暇がなかった。昨日、ふと読み始めると止まらなかった。「ああ、なんという素敵な人がいるんだろう!」自分もほっこりしてしまった。
 なんと我が母校の工学部のキャンパスにある学生協の方だという。一年坊のときは東小金井の中央線端の工学部にある学生寮に生息していた。農学系の人間にとって頭の構造の違う工学系の先輩たちとの交流はとても楽しかった。
 ほぼ30年前に工学部生協で買ったスポング。あの懐かしき日々を思い出してゴリゴリとコーヒー豆を挽くひげ親父。
            Hさんを出してMさんを出さないのは、いかがなものか。
 寄生虫に関しては、Mさんも凄いらしかった。最近、ウシのコクシジウム症という原虫病で、子牛がメタメタ。
 そこで整書でお勉強。そしたら何と執筆者の一人に名を連ねているではないか。
 バトミントンもなかなか凄腕で青森方面でバトミントンで名を知らぬ人はないとまで聞いたが、本当だったろうか・・・?
 お昼にはカップヤキソバを召し上がっていたのだろうか?とんだ、似顔絵が残っていたものだ!
     25年前に描いた先輩の似顔絵。Hさんは、お隣韓国からの留学生であった。豚の寄生虫である豚回虫の研究を大学院でやっていた。
 感染試験に使った豚の体重測定のときの様子。時々、裏の農場に脱走して、ピッグ・ハンティングに動員されるのだ。
 一定数の虫卵を感染させるために、顕微鏡を覗きながら数をカウント、それから生理食塩水で薄めてピペットで吸い上げる。間違ったら飲んじゃうので、あの時だけは緊張した。
 Hさんにこの似顔絵を彩色して差し上げたらとっても喜んでくれて、ソウル・オリンピックには是非、韓国に来てくれと言われたことを覚えている。
 キムチから豚回虫の虫卵が出て騒ぎになっているが、テコンドーのチャンピオンでもあったHさん、韓国でもきっと活躍されてるに違いない。
 
      


 ちょうど万年筆のブルーブラックと同じ色だったので、25年前の日記の余白に描いていた。
 でも、もはや販売してないって知らなかったさ。

 サビオって北海道の人には通じるっていうけど、俺らの世代は大体知っているが、道東ではカットバンが普通だべさ。
 
 sabioって、スペイン語のsaber(知っている)に由来する物知りとか、お利口とか、博学とかいう意味の形容詞。
 ?Sabes?

  
      

 中学のときは学級新聞を作る新聞班の班長だった。出した新聞の名前は「古井戸新聞」。もちろん鉄筆、謄写版刷りの一発勝負!
 なんでこんな名前をつけたのか?たぶん「僕の好きな先生」というフォークの曲に影響されたのでしょう。でも、担任は最悪だったぞぉ!
 仲間ネタ、映画情報、先生ネタ、似顔絵など盛りだくさんだったが、班長のひとりよがり(今も変わんねーかぁ?)で、第8号で廃刊の憂き目をみたと記されている。
 残念ながら、手元に原本は一切残っていない。


 友人たちの似顔絵描きは得意だったが、描かれた本人はあまりうれしくないようだ。
 そこであるとき考えた。後姿だったらいいかも?!
 大学のときの仲良しグループが、同じ仲間がテナーを吹くサブソニック・ジャズ・オーケストラの公演を見に行ったときの後姿たちであります・・・と思ったら、6月だから竹桐会(尺八と琴)だった。あれっ、何でテナーのあいついねーんだぁ?
        

 大学1年のときは、寮生活でした。最初は、寮の飯を食べていましたが、麦飯、冷えた味噌汁、しばしば起こる盗食による飯食えネーデイに、ついに自炊を決意。
 宮古Gパンセンターで買ったエドウィンのエプロンを付けて、電機コンロでの始まりでした。
 テキスト本は「NHK今日の料理」。毎月、買ってました。自分の料理のルーツはここにありです。
    

 大学2〜3年のときが、インベーダーゲームの真っ盛り。勉強もしたが、ゲームもやったと書いておこう。1回100円、100円玉をあるだけ握ってやっていた。
 やっぱり、インベーダ・ゲームでもYamaちゃんは巧かった。
 23発目、それから15発間隔でUFOを打ち落とすと300ポイント。名古屋打ちというのも、全て、彼はいち早く習得していた。
   
 大学1のときは、山登りに嵌っていた。同級生に中央大の法科を卒業してから入ってきたという5つ違いのKinoさんという山好きの人がいて、尾瀬、八ヶ岳、奥多摩に休日や夏休みに出かけた。
1度は冬の八ヶ岳にも行ったが、きつくて途中で挫折して帰ってきた。
 そして、田舎に帰れば早池峰だった。読書は新田次郎の山岳小説を読み漁っていた。Kinoさんが大学を辞めてからも、しばらく登山は続けたが、よく知っていた隣の学科の山岳部が、春山でブロック雪崩でやられた後はぷっつりやめた。
 宮高山岳部だった、おとうとは
大学はスキーに嵌り、今、再び中年山行に嵌り、毎日曜日、どこかに出かけているらしい。



    大学3年生から研究室付けになり、いろいろと雑用をさせられました。実験用のモルモットを増やして、学園祭で売ろうという儲け話が持ち上がりましたが、結局餌の当番は一人でやらされました。 餌は農場の畑の雑草を鎌で刈ってやっていました。雨の日はこんな具合でした。残念ながら、こんな飼い方ですから、この計画は途中ではかなく頓挫してしまいました。昔から、金儲けには縁のない私・・・。


    中学校はバレー部でしたが、体力と腕力を持て余しながら高校は生物部に潜伏しておりました。
 しかも、恥ずかしながらサンショウウオ班でハコネサンショウウオとトウホクサンショウウオで遊ばせてもらってました。
 早池峰山登山は生物部も夏休み恒例でやっていました。ヒーヒーハーハーだったけど楽しかったナァ。
 宮高祭は紙粘土にタミヤのスプレーで塗装し模擬岩を作り八幡山から小木や笹を切り出してきて、早池峰山麓のセットを教室の一角に作り上げて自己満足。
 今も生物部の後輩達は頑張っているかナァ。




     表向きは「Jazz at Five Spot」を聞いていますが、押入れの中には岩崎宏美のfirstアルバムが回っており、それを聞いているというのが、このカット。
 たまには、岩崎宏美(誕生日が同年月日なのでした。)をきいてみたかったのかなぁ?アルバムは持ってなかったよナァ。



    



中学校1年生のときにクラスのSH君からもらった、ペラペラマンガを大切に持っています。幸い度重なる引越しや、かみさんの不意打ちの整理・整頓にも耐過して今日まで何とか保持してきた。
 主人公は若かりし頃のこの私と同級生でした。これに触発されて自分も数本ぺラペラマンガを作ってみたが、彼の足元にも及びませんでした。
 今の時代、こうして電子化することによってこのような作品も残しておける。
 なんか肩の荷が下りた感じです。
 転勤族の父を持つ彼だった。いつのまにかいなくなっていた。今どおしているのだろうか。
 「おーい、SHくーん、おらぁー
お前さんの作品、35年経っても、まーだ大事にもってっつお!」


   


学生のときの四畳半での出来事。仲良かったYamaちゃん、煙草好き。ついつい、話が弾んでいたが、いつの間にやら股間から煙がもやもやと。
 座布団に煙草の火がこぼれて燃えていた。座布団には大きな穴が開いたが、彼の股間は大丈夫だった。
 彼は、学校出てから北海道の乳牛のお医者さん、世田谷のペットのお医者さんを経て、一念発起して正真正銘の整形外科医となり、好きなサッカーでJリーグのチームドクターになるとは、このときは露ほども思わなかったが・・・。Yamaちゃんも動いてみるかい!




  

 初めて北海道でのGW、然別湖畔の土産屋でそば米を入手した。
 庭に撒いたら芽が出て来て、あっという間に大きくなった。そして、白い花が庭いっぱいに咲いて、秋になって黒い蕎麦の実がなった。
 手でしこしこと実を集めたら、1kgにも満たない量だった。それを蕎麦を打つ白河の友人に送った。しばらくしたら、彼が自分の石臼でゴリゴリと挽いた蕎麦粉が送られてきた。
 その蕎麦粉で打った手打ち蕎麦が、私の人生で一番美味しい蕎麦だったと思っている。
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 我が家の次男坊は、こだわりがつよく、また、同世代のこどもたちとコミュニケーションを取るのがとても苦手です。小学校でもこのことに起因したいろんな出来事がありました。

 それでも、担任の先生や支援の先生や父兄のみなさんの手助けやご配慮をいただいて、毎日、元気に学校に行っています。

 絵を使って視覚的に自分の行動に伴う結果を判断、予測させるために、笑った顔、泣いた顔、怒った顔の絵を描いてあげました。

 いつも笑顔でいられるように願って・・・。




      



 今まで忘れ去られた扱いだった我が家のコーヒー・ミル。先日、上のイラストに登場してから掲示板のSPONGつながりで急に脚光を浴びた。
 久々、コーヒー豆を買ってきたが、そう受け皿がなかった。そこで、台所を探しまくったら、ジャスト・サイズだったのが、ケロッピーのタッパー。子供たちの弁当のおかず入れに使っていたが、最近、お蔵入りに近かった。ちょっと、辺縁部を切り落としてたらバッチリはまる。蓋もちゃあんと蓋のまま。SPONG本体がとりつけられているのも、使い古しの幼児用のくまさん椅子。
 男心をくすぐるSPONGも、30年後に緑のパンツを穿いたケロッピーに変身するとは想像だにしなかったっショのリサイクル時代。



  


 高校の同級生達です。今でも付き合いがあるのは半分ぐらいです。
 でも、めっけたら絶対「おおーっ、おすぱらく。」と声を掛けたいですね。
 「おめさん、だれだーすぅ?」何て言わないでよね。容貌変わったのはお互い様でしょうから。




 高校卒業後の夏休み、宮古の友人と遭ってみやご町をぶらぶら、浜をぶらぶら、日立浜あたりで一緒に写した写真をもとに描いた挿入絵です。JAZZ通の彼からはたくさんの事を教えてもらいました。
 青森の大学に行ったギタリストの彼は、東京に出てきてラリー・カールトンとクルセイダースを見に行ったのだった。
 今は、没交渉なのが残念です

 

 高校生のときは三社タクシーの近くの小成園で、コーヒーを豆で買って、盛岡の川徳デパートで買ったコーヒー・ミルで挽いて飲んでました。
 大学ではイギリスのSPONGというメーカーのミルで極細挽き、ペーパーフィルター目詰まり状態ので飲むのが好きでした。豆は一時、名前に惹かれてキーコーヒーのトアルコ・トラジャに凝ってましたが、やはり定番はスペシャル・ブレンドやUCCのレギュラー・コーヒー。たまーに、バイトや仕送りでリッチになるとブルー・マウンテンでした。
 大学生協のコヒーはいつも今三ぐらいでした。
   

     



 アンディー・ウォーホルじゃないけれど、アカハタ・ブランドのトマト・ジャム。
 トマトがジャムになるかって、今はミルク・ジャムだってあるんだから何でもありさ。

                           
                          
 
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